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聖農 石川理紀之助

 石川 理紀之助

いしかわ りきのすけ 


石川理紀之助は明治時代の農業指導者です。1844年、現在の秋田市金足小泉で生まれ、その時は奈良力之助でしたが、21歳の時、現在の潟上市昭和豊川山田の地主石川家の養子となりました。各農村の土地や歴史文化なども詳細に調べ、「適産調(てきさんしらべ)」という調査書を作成し、それをもとに各農村の指導をしていきました。「寝ていて人を起こすことなかれ」(人を指導する人はまず自分から率先して行動しないといけない。)という信念のもと、毎朝3時に掛け板を打ち鳴らし、早朝から村人とともに朝仕事を行いました。
また、「種苗交換会(しゅびょうこうかんかい)」という秋田県内の農家の交流行事を始めました。この行事は現在でも毎年開催されています。このように、石川翁の教えは現在の秋田県人にも伝わっています。
 
 
Rikinosuke Ishikawa
Rikinosuke Ishikawa, an agricultural leader during the Meiji era, was born Rikinosuke Nara in 1844, in the village of Koizumi (currently Kanaashi-Koizumi area, Akita City). At the age of 21, he was adopted into the Ishikawa family, who was the landlord in Yamada (currently an area located within Toyokawa, Showa area, Katagami City). Due to his 10 years of dedicated research and examination of the land, history, and culture of the Yamada area, he produced a report titled, “Tekisan-Shirabe”, meaning “Research on Optimal Harvest Production.” This report served as the basis for instructing improved agricultural practices to local farmers. He worked tirelessly from 3 o’clock every morning living up to his motto, “Nete ite hito wo okosu koto nakare,” meaning, “You do not wake people by sleeping.” In other words, “A leader must make the first move to motivate others.”
Ishikawa initiated an annual seed exchange event in 1878, which to this day is an important annual social event for farmers in Akita Prefecture. It shows the lasting impact of Rikinosuke Ishikawa’s research and teachings.
 

石川翁遺跡保存会

 

石川翁資料館(潟上市郷土文化保存伝習館)

 

 種苗交換会

秋田県種苗交換会は石川翁が推進役となり始まった歴史あるイベントである。当時は、農業振興や腐米改良事業を目的として行われていた。

 草木谷山居生活

貧しい農村を救済するため、自宅から1.6㎞離れた「草木谷」に粗末な小屋を建て、貧農生活を実践した。また、自身の誠意を世の農民に理解してもらうため生活した地

 適産調 

県内外49町村を対象に、土壌の種類、田畑面積、人口、戸数、生産物、自作農地と小作農地の収入、農作業、生活習慣に至るまで細かく調べる「適産調」を行い731冊の調書にまとめられた。

 遠くは宮崎など全国各地の農村救済 

明治35年(西暦 1902年)、宮崎県谷頭村へ。石川翁の畏友・前田正名の要請により、宮崎県の農村指導を行う。旅費・小遣い一切を自己負担とし、死を覚悟して同志7人とともに滞在、極貧怠惰な村を6ケ月で建て直した。

 

 一.寝て居て人を起こすこと勿れ
 二.遠国のことを学ぶには先ず自国のことを知れ
 三.資金をのみ力にして起こす産は破れ易し
 四.金満家の息子は多く農家の義務を知らず
 五.経済は唯沢山に金銭を持つことにあらず
 六.勧業の良結果は多く速成を要せざるにあり
 七.農家にして蓄財を望まば耕地に貸付けて利を取れ
 八.樹木は祖先より借りて子孫に返すものと知れ
 九.人力のみにて成就するものは永久の産にならず
 十.子孫の繁栄を思わば草木に培養することを以て悟れ
十一.国の経済を考えて家の経済を行え
十二.豊年にも大凶作あり気をつけて見よ
十三.金銭はみだりに集むること易くしてよく使うことは難し
十四.僥倖の利益は永久の宝にあらず

九州、谷頭の村おこしの指導に行った石川理紀之助翁と7人の同志。明治35年9月鹿児島で撮影した写真です。後列向かって右より伊藤永助、伊藤与助、佐藤政治、田仲源治、伊藤甚一、桜原金之助(夜学生)前列佐藤市太郎、竹森重二(夜学生)、石川翁、森川源三郎、村岡新之助(夜学生)。
来年、石川翁生誕170年にあたり、石川翁と同志7人の足跡をたどっています。中でも佐藤政治、田仲源治、佐藤市太郎の3人についての情報がとても少なく、また大仙市九升田の救済活躍もしているのですが、こちらの情報も少ないのです。どなたか情報をお持ちの方はご協力ください。

 石川理紀之助翁 略年表

1845(弘化2)

1歳 誕生秋田郡小泉村父・奈良周喜治(三男)

1853(嘉永6)

9歳 手習師匠について学ぶ

1865(慶応1)

21歳 山田村石川長十郎の婿養子となる

1867(慶応3)

23歳 農業畊作会をつくる

1869(明治2)

25歳 肝煎後見役となる

1872(明治5)

28歳 秋田県租税課に出仕する

1877(明治10)

33歳 内国勧業博覧会へ用務をおびて上京途中各県の農業視察勧業義会一支会をつくる

1878(明治11)

34歳 腐米改良事業に取り組む種苗交換会をはじめる

1880(明治13)

36歳 歴観農話連をつくる

1883(明治16)

39歳 官職をやめて農家経済の道を教える為に村に帰る

1885(明治18)

41歳 山田村経済会をつくり救済事業をはじめる

1887(明治20)

43歳 長男民之助家出訪ねて干島にわたり遺骨を持ち帰る

1888(明治21)

44歳 農商務省で山田村経済会の実績について講話す

1889(明治22)

45歳 山田村救済第一期の目標完遂 草木谷に山居す

1894(明治27)

50歳 第1回農事大会に出席有功章をうける 北白川宮殿下の命により九州各県を巡講

1895(明治28)

51歳 農会をつくり郡農会長・県農会長となる山形の奥羽農事大会に

出席四国各県・千葉県を巡講

1896(明治29)

52歳 適産調をはじめる

1902(明治35)

58歳 同志7名とともに宮崎県に行き前田正名(元農商務次官)の事業に協力して

圧内村谷頭(たにがしら)の指導にあたる この年適産調終了

1903(明治36)

59歳 あとつぎ老之助(おいのすけ)病死

1912(明治45)

68歳 乾田適地調査を行う強首(こわくび)村九升田の救済に着手す

1913(大正2) 

69歳 宮城県巡講 秋には青森地方の凶作地視察巡講

1914(大正3) 

70歳 角間川町木内(きうち)布晒(ぬのさらし)地区の指導にとりかかる夫人スワ子病没

1915(大正4) 

71歳 強首村九升田指導第一期完了 9月8日永眠